新しい思い出はいらない

Facebookを始めたころは、仕事の関係でのやり取りが増えるだろうとおもっていました。
ですから、写真もちゃんとアップして、過去にお仕事を一緒にした方も私がわかるようにしたのです。
ですが、実際には、仕事半分、プライベート半分という割合で、つながっています。

そうなると、アップする内容って意外とむずかしくって、あまりプライベートすぎるのみなんだし、仕事の話をするとセキュリティで危なそうだしで、結局その時におもしろいと思ったたわいもないことをアップしたりするもの後は、ほとんど個別のやり取りになっています。
そんな時に、突然まったく知らない名前の友達申請がやってきました。
迷惑系かと思ってほおっておいたのですが、メッセージもきていたので読んでみると、なんと大学の時に付き合っていた彼でした。
苗字も変わっていたので全然気づか鳴ったのです。
養子に行って苗字が変わったのだそうで、そのことも書いてありました。
せっかくだったので、友達申請を受けずに、メールでやり取りをしてみました。
写真を見て、私だと思って連絡をくれたのだそうですが、アップしている写真と学生の時の私は、かなり違うと思っていたので、ちょっとショックだったりして。
でも、まあこれも縁かもしれません。
今は連絡を取り合ってはいますが、いまさら会う気は実はないのです。
以前の私は今とは違うし、相手もきっとそうだろうと思うから。
過去は過去ですから、新しい思い出はいらないのです。

日記再開か!?

10年前の日記を見直してみたら、当時の感情が読み返ってきました。

今日、引き出しを整理していたら、昔の日記が出てきました。
今から約10年前のものです。
その日記は6日書いただけで終わっていて、三日坊主ならぬ六日坊主でした。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、根本的な性格は変わっていないようです…。

日記というのは不思議なものですね。
私が書いた文章なのですが、赤の他人が書いたような、
ページを捲ると、10年前の私が目の前にいるような、不思議な感覚に陥りました。
文章も(今以上に)拙く、内容も(今以上に)幼く、読んでいて赤面物でしたが、10年前の私のリアルな思いがそこにはあって、面白かったです。

「友達にこんなことをされて嫌だった」なんて平気で書いていて、我ながら嫌なやつだな~と苦笑いしたり、将来への不安についての文章には、「青臭いな~」と恥ずかしがったり。
時間を持て余していて、頭で考えることだけは立派で、何も行動に移せなかった当時を思い出しました。

そしてつくづくと、思い出は美化されるものなのだと実感しました。
これまで「辛いこともあったけど楽しい思い出」として記憶していた事柄が、当時の私にとっては「楽しい」と思う余裕もなく、ただ苦しみしか感じていなかったということは、日記を通して気付いた大きな驚きです。

以上のように色々な発見があったのも、日記にリアルな感情を詰め込んでいたからでしょうね。
記憶というものがいかに不確かかということを実感したからこそ、再度日記を始めてみようかと思っています。